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  • 小説梁祝リャンチュウの著者「趙清閣」と「老舎」の恋愛事情
    渡辺明次 (09/11)
  • 「孟姜女口承伝説集」に前文を書いていただいた蘇州の馬漢民先生東京へ、神保町と国会図書館に同行。明代の文学者、蘇州の人、馮夢竜(ふうむりゅう)の記念館開設準備のための来日。
    渡辺明次 (09/11)
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    えり (09/09)
  • 小説梁祝リャンチュウの著者「趙清閣」と「老舎」の恋愛事情
    えり (09/09)
  •  梁祝リャンチュウ伝説(梁祝愛情故事)は1500年以上昔の東晋(AD317〜420)の頃に形成され今に連綿と語り伝えられており、中国で四大愛情伝説(梁祝・孟姜女・牛郎織女=七夕伝説・白蛇伝)の一つに数えられる伝説である。
    Tsukagoshi (07/25)
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小説梁祝リャンチュウの著者「趙清閣」と「老舎」の恋愛事情
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     若き日の趙清閣

    これは「小説梁山伯リャンシャンボと祝英台チュウインタイ」の翻訳出版時2006年趙清閣と生前親交があった上海師範大学史承鈞Shi Cheng Jun教授に依頼して書いていただいた、作者「趙清閣」の人物紹介文(約2700文字)である。それから6年が経過した2012年9月先生よりこれを加筆訂正し(約1600文字)、今後再版の機会があったら新しいものに取り替えてほしいと依頼があったので、加筆訂正部分を試みに翻訳して付け加え全文(約4200文字)を見直したものである。

    関心のある人には、加筆部分はとても興味深い内容で、日本でもよく知られている「老舎」との「趙清閣」の若き日から、晩年までの恋愛事情である。(翻訳渡辺明次)                        参考のために翻訳文の最後に史承鈎先生の中国語原文を添えた。      
      
     

     渡辺先生   (2012年9月上海の史承鈎先生よりのメール)
         こんにちは!  ご無沙汰致しております。
        2006年、私は以前に渡辺先生が翻訳された『梁山伯と祝英台』のために趙清閣先生を紹介する一篇の文章を書きました。もともと私は国外の慣例によって、趙清閣と老舎の愛情の一くさりを書きました。

    けれどもそれは当時の国内にはこの事情を話題にすることがめったにないために、いくらか少しタブーのようなものがあり、そのためにその部分は削除されていました。あれから6年が去って、国内の研究討論で、この事を取り上げる人が多くなってきました。私もその例に漏れることはできませんでした。

    それで傅光明先生への手紙で、あなたのために書いた趙清閣の紹介の全文を傳光明先生にお見せしているのですが、話しがこの事に及びました。傅先生も又多くの所で老舎のその部分に関して引用しておられるのです。私はこの事を渡辺先生にも知らせておくべきと感じ、併せて以前、保守的に削除したことに遺憾の意をお伝えします。

    どうかご理解下さい。ここに私は、新しい紹介文全文と傅光明の手紙を一緒にお送りし、御批評をいただきたいと思います。もしあなたの翻訳作品が再版されることがあれば、ご利用いただきたいと思います。

    あなたは中日文化の交流に力を尽くされ、とりわけ民間文学の交流に著しい成果を上げられ、その精神には敬服させられます。願わくばさらに多くの新しい成果を世に問われるように願っています。
         

    老舎


     新しく老舎と趙清閣の関係部分が付け加えられた紹介文。                 

    中国の現代の有名な女流作家趙清閣                           上海師範大学 教授  史承鈞        

    趙清閣は現代中国の有名な女流作家で編集者である。彼女の手になる小説、芝居、演劇、映画、散文などの方面に極めて沢山の功績を打ち立てています。なかでも特に五四運動に拍車がかかって以来の現代女流文学の発展に、不滅の功績が有りました。彼女は又詩も絵画も堪能で、交遊も幅広く、現代中国文学芸術、芝居、演劇、映画界に広範な影響を及ぼしました。       

    趙清閣は1914年5月9日河南省信陽県に生まれました。祖父趙文選は清朝の挙人(科挙試験の郷試に合格した人)で、朝廷の教官を務めていた。父親、趙企韓は専科(高等専門学校)を卒業後ずっと郷里にあって教育と組織建設活動に従事した。母親、董素文は彼女が五歳の時に世を去り、趙清閣は祖母の養育のもとに成長した。

    1922年から、彼女は母方の祖父の家の私塾で文語文(特に五四運動以前の文言文の総称)を学び、あわせて信陽第二師範学校に入り付属小学校で勉強した。そこで、叔父の董次義(清朝の科挙の最終合格者)が彼女に古典の詩と詞を教え、付属小の先生宋若瑜(蒋光赤夫人)が彼女が五四の白話文学(口語文)を学ぶように導いた。

    十五歳の時、ちょうど中学校に在学していた趙清閣は父親と継母が相談し彼女を中途退学させて官僚(高級役人)の家に嫁がせると言うことを聞き及び、彼女は祖母と親友楊郁文の支持助けを受け独りで家出し郷里を後にした。

              その後、趙清閣は河南芸術高校に試験を受け入り学習に必要な奨学金を得た。この時から、彼女は創作活動を始めた。1930年から、彼女は「河南民報」に投稿を開始した。次の年すぐに「新河南日報」の文芸欄「婦女週刊」の編集主幹に招聘された。1932年から芸術高校を卒業し、彼女は仕事を祖母に孝養を尽くすことに決めた。

    しかし彼女が河南省救済院貧民小学の教務主任の招聘状を受け取って間もなく、なんと祖母は病気でこの世を去った。これは彼女をして家族のつながりの最後のひとすじの関係、絆を断ち切る出来事であった。

    この時彼女は又河南大学中国語学部でしばらく勉強しあわせて上海の「女子月刊」に投稿し、その雑誌の特約投稿員となった。しかしながら彼女が表現した封建的圧迫への抵抗と社会の不公平を暴露する文章、さらには貧民子弟への同情は、かえって危険分子と見なされ主編者の不安を引き起こし、ついには解任された。そこで、彼女は新しい方向を求めて上海に活動の拠点を移した。

                                1932年9月、彼女は上海美術専科学校の西洋画学部の編入生として試験を受け、この学部の主任に受け入れられ、創造社(1921年設立の文学団体.郭沫若·郁達夫·成仿吾·田漢·張資平ら在日留学生が中心となり雑誌〔创造季刊〕などに依って〔文学研究会〕に対抗した。)の作家倪貽徳の指導と助力を得た。学習と生活の支払いに対処するために、彼女は人を介して「天一電影公司」にシナリオ補佐、「明星日報」編集に入る紹介を受けた。

    「天一電影公司」に於いては、彼女は又左翼劇作家左明、洪深などの配慮を得た。

       この当時彼女は第一作目の小説集「旱」(日照り)を出した。趙清閣は1935年上海美専卒業後、かって一度、河南芸術高等学校に帰って教員を務めた、しかし軍閥の罪悪を暴く文章をかいたことにより、共産党嫌疑分子として半年入獄させられた。その年の末に、彼女は開封(河南省)に別れを告げて、再度上海にやって来た。                        

    上海で、趙清閣は「女子書店」に入り、編集長として招聘され、「女子文庫」の編集主幹、併せて「女子月刊」の編集委員を兼任した。けれども抗日宣伝を行った事に因り、国民党の注意を受け、「女子書店」の社長は彼女と「女子月刊」の編集長陳白冰を一緒に解任しなければならなかった。 

       1936年秋、趙清閣は南京に来たり、「中央電影厂(工場)」の脚本を担当し、併せて「婦女文化」月刊を創刊した。この時、彼女は第一作目の映画脚本「モデル」を発表した。抗日戦争が勃発し、趙清閣は「中央電影厂(工場)」の職務を辞し、1938年2月から転々として武漢にやって来た。

    武漢で、彼女は中華全国文芸界抗敵協会の準備と設立に参加し、また理事会の幹事に招聘され、それから抗日文芸の大きな流れに身を投じた。愛国主義の旗印の下、彼女は多くの各党各派の人物と接触し、老舎、郭沫若など著名な作家と知り合い近づきにもなり、また国民党の作家張道藩、王平陵等と有る程度の交流をもち、彼女の社会的交流関係は空前の広がりを持ち、また更に多くの関心を受け可愛がられた。この時、彼女は有名な抗日戦争の文芸刊行物「弾花」(刊行名寓意の“抗日戦争の銃弾、勝利の花を開く)を創刊した。

           戦況が急を告げたため、彼女はこの年の七月武漢を離れて重慶に行き、併せて「弾花」を重慶に持参し編集出版した。重慶で、彼女は教育部教科書編集委員会特約編集員の招聘に応じ、併せて特別手当と経済的援助を獲得し、1940年の辞職に至るまで創作に専心した。1942年、彼女は又、国民党の中央文化運動委員会の委員に招聘された。彼女は華中書局のために「弾花文芸叢書」を編集し、又相前後して中西書局のために「中西文芸叢書」、「黄河文芸叢書」等を責任編集した。

    この当時彼女は既に貧しく且つ病を得ていたが、創作は非常にまめで、相前後して小説集「華北の秋」、「鳳」と脚本「女傑」、「反撃勝利」、「生死恋」、「此恨綿綿」等を出版し、さらに脚本「王老虎」、「桃李春風」等を書き、後者は教育部の称賛と奨励を受けた。1943年、彼女は冰心の激励の下に小説「紅楼夢」話劇に改作することを始め、続々と「冷月詩魂」(後に「賈宝玉と林黛玉」改名)、「雪剣鴛鴦」、「流水飛花」、「禅烏帰林」など創作意欲溢れる脚本を書いた。抗日戦争の勝利で、趙清閣は上海に戻り「神州日報」文芸欄「原野」を編集主幹。

    1947年4月「神州日報」が封鎖された後は創作活動に専念した。「文潮月刊」の編集委員も兼任した。書いた小説には「双宿双飛」「芸霊魂」「落葉」等があり、併せて著名な中国現代作家特集「無題集」を編んだものもある。1948年趙清閣は、熊仏西の招きに応じて上海戯劇専科学校で教員を務め、後に大同電影公司に入り脚本を担当し、また映画脚本「几番風雨」「蝶恋花」と老舎の同名小説を改作した「離婚」を書いた。後、苦悶のうちに、混乱と猶予のなか上海の解放を迎える。                                 

    建国の初めは(1945年)、趙清閣は引き続き大同電影公司で脚本を担当しており、映画脚本「自由の天地」と「娘の春」を書いた。しかし、彼女が解放前に既に共産党と進歩的作家に接近し、又国民党官僚と、文人とも付き合った経歴が有ったことにより、彼女をして知識分子としての思想改造を、それを以てこの後の度々の運動のなかで審査を受けさせ、決して重用されることはなかった。

    1952年、大同電影公司は国営の上海連合電影厂(上海電影制片厂の前身)に合併され、趙清閣は芸術所所員に転勤させられ、資料整理の仕事に専念した。これは疑いもなく左遷で創作の権限を制限されたことを意味した。この後の三年間彼女はわずかに余暇の時間を利用して古典戯曲を基にして「桃花扇」を改作し越劇の脚本「桃花扇」を書き上げ、民間伝説に基づき改編し「梁山伯と祝英台」、「白蛇伝」を書いた。

    1956年に至って許广平が全国人民代表大会代表の身分で上海に視察にやってき、彼女の仕事に対して関心を示し、彼女はやっと創作の仕事に復帰した。次の年周恩来総理が上海に来て又彼女に対して関心を示した。この後、彼女は古典の名劇「牡丹亭」を改編した小説「杜麗のお母さん」、映画脚本「向陽花開」、および文化部の命を受け香港電影公司のために書いた「鳳巣に戻る」を出版し、併せて映画脚本「林巧稚大夫」と別に一つ「紅楼夢」から改編した小説「鬼蜮花殃」を書いた。                               

    「文革」(文化大革命.1966年5月の「5・16通達」から76年10月の「四人組」失脚まで約10年間続いた中国の大規模な政治運動)の始め、趙清閣は又も所謂「歴史問題」の迫害に直面し、「審査」を受け、家財を差し押さえられ、たくさんの貴重な郵便物、書画と書籍をそのために散逸させられ、趙清閣本人もまた脳血栓を突然発症し半身不随となり、たくさんの友人との連絡もしかたなく中断する。

    彼女は疾病、孤独、苦悶、恐れと猶予待機の中で最も暗い10年を過ごした。やがて新しい時節が到来し、中途で書くのを止めて12年の趙清閣は散文「新しい始まり」を発表し、続いて又映画脚本「粉墨青青」、を発表し、この一老作家が又青春の若さを輝かせたことを示している。

    この後、彼女は全国第四次文代大会に参加し、多くの古くからの友人との付き合いを回復し、また香港、澳門、国外の学者の注視を受けた。1979年、彼女は穎超の配慮の下、上海社会科学院文学研究所に迎え入れられた。この時期、彼女の多くの作品「紅楼夢話劇集」、「梁山伯と祝英台」、「白蛇伝」および編集主幹の「無題集」等が再び出版された。同時に、彼女は大量の過去の思い出を書き記し、真情からの思い出を散文として書きあらわし、「沧海泛忆」「行云散记」「浮生若梦」「不堪回首」及「长相忆」など五つの散文集を集成し、これらの散文は親密で自然に書かれまた血涙溢れる真情に満ち、彼女自らの一生の総括と言うことができ、また中国現代散文史上の傑作である。


    以下訂正の主要追加部分2012年8月送られてきた原稿部分→   
    老舎
          趙清閣は幼くして母を失い、性格の上でどうしても孤独と憂鬱を免れ得なかった。しかし彼女は封建的な婚姻に抵抗してから、家庭を裏切って、不平等な旧社会に抵抗し女性の独立自主を求めた、そしてそれは幾分勇ましくも落ち着いて粘り強いものであった。けれども一人の若い女性が社会に向かって行くには、いろいろと助けを求めないわけにはいかなく、種々様々な人間と接触した。

    その中には共産党員と進歩的な人士、また国民党の人と文化官僚がいた。彼女は愛国、民主、進歩を旗印として、これらの多くの文化人の間で、自らの自由思想と独立の品格を堅持していた。解放後彼女は各種類の運動を経験し尽くし、とりわけその中でも「文革」の大きな災禍の苦難の経験であるが、彼女は依然として自己を保持することに努力し、女性の独立自尊と自ら努力して向上する姿勢を守り、文芸の自由を創造することを第二の使命とした。

    そのため苦難に満ちた曲折を経験し尽くしたのではあるけれども、彼女はやはり中国の現代文化事業の上で自分にできる貢献をし、一人の影響力のある現代女流作家となったのである。

      趙清閣の書いた作品は、その多くが愛情問題から離れられず、少なからずその作品は愛情悲劇であり、純粋な愛情と自由な婚姻の追求、幸せの渇望について描かれたものは一つもない。それは例えば脚本≪生死恋≫(生死を賭けた恋)、≪此恨綿綿≫(この恨みいつまでも)、小説≪芸灵魂≫(芸の魂)、≪落叶≫(落ち葉)などである。けれども彼女本人の愛情はあまり首尾は良くない。

    彼女は若いころ封建的な婚姻に抵抗することから社会に歩みを始めた。事業の上でも、生活上でも、等しく沢山の正直な青年男性の助けを得たが、ところが彼らは彼女が真実の愛を探し当てるようには助けることはできなかった。抗日戦争の中で彼女は武漢にやって来て、『文協』(中華全国文芸界抗敵協会)の準備の過程で老舎を見知り、二人はその性格から、その趣旨に意気投合し、ほとんど一目惚れで、一段の甘く美しくせつない恋心を芽生えさせ始めた。

    彼らは一緒に『文協』の設立計画に参与し、併せて趙清閣が創刊した抗日戦争の文芸刊行物≪弾花≫(抗日戦争の銃弾、勝利の花を開く)で手を携え協力する。しかる後、彼らは又前後して重慶に来たり、そして北碚(重慶市の北にある地名「ほくはい」)で脚本を協力して作り、引き続き抗日戦争の文芸、『文協』のために力を尽くした。抗日戦争と文芸は彼らを一緒に歩ませ、戦争がもたらす苦難の中で彼らは苦楽を共にし、お互いを慰めた。

    彼らは、ほとんど抗日戦争のために夫婦となったようなもので・・・・・これは抗日戦争という特殊な時代の中で、他郷を放浪し抗日戦争中に日本軍の勢力の及ばなかった地区にあった文人が特殊な境地の下で往々にして発生したことである・・・・・けれどもこの情況は1943年老舎の夫人が3人の子どもを連れて封鎖を突破して突然やって来て中止となった。

    それ以後彼らはいつも二つの場所に別れていた。1943年からは成都/重慶――北碚(ほくはい)であり、1946年からは上海――米国であり、1950年からは上海――北京という具合だ。けれども彼らの精神は通じ合っていて、表面上は関係を断ち切ったように見えるが、その愛はまだつながっており、依然としていつの日か老舎の家庭の問題が順調に解決した後、一緒に夫婦になることに幻想を抱いている。

    甚だしきに到っては、老舎は夫人との今後の生活を都合よく処理して子女の教育資金すらも全部準備していたほどである。しかし彼は夫人の理解を得ることができなく、かえって夫人は彼が単身で抗日戦争に赴いていることを支持し、その上彼に代わって老母に孝養をを尽くし子女を育てる愛情を、彼も忘れることはできないだろうと思っていた。

    当時、建国後の連続して絶えることのない政治運動と思想改造は、同じく彼らをして感情上のことを考える余裕をなくならせていた。まして更に強い勢いの大衆の世論はなおさらである中で、個人の感情はただ小さなこと、私事で、名のある人のイメージとして、どちらかと言えば国家の大事、公務に関係するものは彼らにどうしても幻想を放棄しなければならなくさせ、現実に直面させる。このために、趙清閣は犠牲を作り出したくなくて、昔のことに言及しない。

    そこで、彼らはごく淡い恋情を濃い友情へと変化させ、依然として普通以上である強い関心を維持し、それは終始一貫しており「文革」の始まりに到るまで老舎自身は二人の愛情に関して太平の夢の中にあった。神仙が隔てようとも、かえって趙清閣の恋しい思いは深まった。老舎の誕生日と命日になるといつも、彼女は独りですべて記念しなければならない。彼女はいつも新聞紙上に老舎に関係のある記事を読むと、彼女はどれにも重大な注意を払い、ひいては切り取り保存した。

    彼女の多くの追憶の散文は、どれも老舎に言及している。彼女の客間の中には老舎が1960年の春に書いて送った ≪憶蜀中小景二絶≫(記憶の中の蜀(=ショク四川)比べる物のない小景)が壁に掛けられており、書斎の机上には、老舎が1939年北路慰労団に参加し、わざわざ甘粛省酒泉から持ち帰り彼女に送った硯が置かれている。
    老舎が趙清閣に長寿祝いに送った直筆の対聯
    書斎机の真向かいは、老舎が1961年に、彼女の誕生祝いに書いて送った対聯≪清流笛韵微添醉、翠閣花香勤著書≫(注:清らかに流れる水音は音楽のようであり、それはあなたがお酒を飲む楽しみをいや増す「あなたの気高い感情をいや増す」、緑の陰が覆うあなたの部屋は花の香りを嗅ぐことができ、あなたに勤勉な著作を促す)がある。その側の壁の上には、老舎が1944年彼女に書いて送った扇子がある。

    ベット脇のテーブルの上には、老舎が彼女が肺結核を病んだ時に彼女に送った小さい痰壺がある。老舎は彼女の生活の中のどこにでもいる。しかし一部の情況を除いて、彼女は彼、つまり老舎との間にかってあった愛情に口をつぐんで言及しない。彼女は文壇の作風がゆがんでいて、先入観があまりに深いと感じ、老舎のイメージを損なうことを恐れた。同時に人の噂は恐ろしいことと感じ、自分の晩年の静かさをかき乱されることを恐れた。

    このために、彼女は甚だしきに至っては臨終になる前に、秘蔵する「文革」の災難の後も残存していた老舎の書簡や文物を焼き捨てている。彼女は死に至るまでいつも老舎を懐かしみ、老舎を守っていた。   
    晩年の趙清閣
            趙清閣は一生結婚することなく、身の回りには身内もなく、晩年は家政婦の吴嫂が数十年に渡り助け合って生きた。彼女は名利には無関心で、書物を友として、寂しさと勤勉な執筆活動のなかで余生を過ごした。   
      1999年6月趙清閣は、中央電視台CCTVと東方電視台の取材を受けて彼女の談話は中央電視台の≪二十世紀の中国女性史≫と東方電視台の≪記憶≫という重要番組となった。これは彼女が世を去る前の我が国の現代史と女性史に対する重要な貢献となった。
       彼女は1999年11月27日上海でこの世を去り、享年85歳であった。                                                   


                              

      附記;これは私(史承钧)が日本の友人渡辺明次先生の求めに応じて、彼が翻訳した趙清閣の小説≪梁山伯と祝英台≫(日本僑報社2006年10月出版)のために書いた趙清閣の人物紹介である。2012年9月、一部修正を加え老舎との関係部分を加筆し訂正した。
                   
      
    2006著作権のことで生前親交のあった史先生を上海に訪ねた時


       中国现代著名的女作家赵清阁
                       史承钧

      赵清阁是中国现代著名的女作家和编辑。她于小说、戏剧、电影、散文等方面颇多建树,尤其在促进五四以来的现代女性文学的发展上,有不可磨灭的功绩。她又能诗善画,交游广泛,在中国现代文学艺术、戏剧电影界有广泛的影响。
      赵清阁1914年5月9日出生于河南省信阳县。祖父赵文选是前清举人,做过学官。父亲赵企韩专科毕业后一直在家乡从事教育和建设工作。母亲董素文在她5岁时去世,赵清阁在祖母抚养下长大。1922年起,她在外祖父家的私塾学习古文,并进入信阳第二女子师范学校附小读书。在那里,舅父董次义(前清进士)教她古典诗词,附小老师宋若瑜(蒋光赤夫人)引导她学习五四新文学。15岁时,正在读初中的赵清阁听得父亲和继母商议要她辍学嫁入一个官僚人家。她不满意这种包办婚姻并立志继续求学深造。因此,她在祖母支持和好友杨郁文的帮助下只身离家出走。
      此后,赵清阁考入开封的河南艺术高中并获得学习所需的助学金。这时,她开始了写作。1930年起,她开始向《河南民报》投稿;次年即被聘为《新河南日报》副刊《妇女周刊》主编。1932年从艺术高中毕业,她决定工作来奉养祖母。但她接到河南省救济院贫民小学教务主任的聘书不久,祖母却病逝了。
      这时她又借读于河南大学中文系并向上海的《女子月刊》投稿,成为该杂志的特约撰稿员。然而她所表现的反抗封建压迫的精神和揭露社会不平的文章,以及对贫民子弟的同情,却被视为危险分子而引起校方的不安,终于被解聘。于是,她转向上海以求发展。
      1932年9月,她作为插班生考入上海美术专科学校西画系,受到了该系主任、创造社作家倪贻的指导与帮助。为了应付学习和生活开支,她经人介绍进入天一电影公司为助理编剧,编辑《明星日报》。在天一,她又得到左翼剧作家左明、洪深等人的关怀。这时她出了第一个小说集《旱》。赵清阁1935年从上海美专毕业后,曾一度回河南艺术高中任教,但因撰文揭露军阀罪恶,被作为共产党嫌疑分子入狱半年。年底,她告别开封,再次来到上海。
      在上海,赵清阁进入了女子书店,被聘为总编辑,主编《女子文库》,并兼任《女子月刊》编委。但因进行抗日宣传,受到国民党的注意,女子书店的老板不得不将她和《女子月刊》主编陈白冰一起解聘。
      1936年秋,赵清阁来到南京,任中央电影厂编剧,并创办《妇女文化》月刊。这时,她发表了第一个电影剧本《模特儿》。
      抗战爆发,赵清阁辞去中央电影厂职务,于1938年2月辗转来到武汉。在武汉,她参加了中华全国文艺界抗敌协会的筹备和建立,并被聘为理事会干事,从此投入抗日文艺的洪流。在爱国主义旗帜下,她接触了大量各党各派的人物,既结识了老舍、郭沫若等著名作家,也和国民党作家张道藩、王平陵等有所交往,社会联系空前扩大,也受到了更多的关爱。这时,她创办了著名的抗战文艺刊物《弹花》(刊名寓意“抗战的子弹,开出胜利之花”)。
      因战事吃紧,她于这年7月离开武汉去重庆,并将《弹花》带至重庆编辑出版。在重庆,她曾应聘为教育部教科书编委会特约编辑,并获得津贴和资助,直至1940年辞职专事创作。1942年,她又曾被聘为国民党的中央文化运动委员会的委员。她为华中书局编辑了“弹花文艺丛书”,又先后为中西书局主编了“中西文艺丛书”、“黄河文艺丛书”等。这时她虽既贫且病,但创作甚勤,先后出版了小说集《华北的秋》、《凤》和剧本《女杰》《反攻胜利》《生死恋》《此恨绵绵》等,还写了《抗战文艺概论》等理论著作和不少散文、评论。她还和老舍合作写了剧本《王老虎》(又名《虎啸》,合作者还有萧亦五)、《桃李春风》,后者受到教育部的嘉奖。1943年,她在冰心的鼓励下开始将小说《红楼梦》改编为话剧,陆续写出了《冷月诗魂》(后改名《贾宝玉与林黛玉》)、《雪剑鸳鸯》、《流水飞花》、《禅鸟归林》等有创意的剧本。
      抗战胜利,赵清阁回上海主编《神州日报》副刊《原野》。1946年4月《神州日报》被封后从事专业创作,兼任《文潮月刊》编委,写有小说《双宿双飞》、《艺灵魂》、《落叶》等,并编有著名的中国现代女作家小说散文专集《无题集》。1948年赵清阁曾应熊佛西之邀任教于上海戏剧专科学校,后入大同电影公司任编剧,曾写了电影剧本《几番风雨》(和洪深合作)《蝶恋花》和据老舍同名小说改编的《离婚》。后在苦闷、混乱和等待中迎来上海的解放。
      建国之初,赵清阁继续在大同任编剧,曾写了电影剧本《自由天地》和《女儿春》(均曾公映)。然而,由于她在解放前既接近共产党和进步作家,又与国民党官僚、文人也有所交往的历史,使她在知识分子思想改造以及此后的历次运动中受到审查,并不受重用。1952年,大同公司并入国营的上海联合电影厂(上海电影制片厂前身),赵清阁调任艺术处处员,专事资料工作。这无疑被限制了写作的权利。在此后的3年中,她仅仅利用业余时间写成了根据古典戏剧《桃花扇》改编的越剧剧本《桃花扇》,和根据民间传说改写的小说《梁山伯与祝英台》与《白蛇传》。直至1956年许广平以全国人大代表身份来上海视察,对她工作加以关心,她才得以回到创作岗位;次年周恩来总理到上海又曾对她加以关注。此后,她出版了由古典名剧《牡丹亭》改编的小说《杜丽娘》,电影剧本《向阳花开》,以及受命于文化部为香港电影公司写作的《凤还巢》,并写出了电影剧本《林巧稚大夫》和另一改编自《红楼梦》的小说(应为剧本)《鬼蜮花殃》。
       “文革”伊始,赵清阁又以所谓“历史问题”遭到迫害,被“审查”、抄家,许多珍贵的信件、字画和书籍因此散失,赵清阁本人也突发脑血栓而偏瘫数年,与许多友人的联系也被迫中断。她在疾病、孤独、苦闷、恐惧和等待中熬过了那最邂電十年。
      新时期来临,辍笔12年的赵清阁发表了散文《新的开端》,接着又发表了电影剧本《粉墨青青》,标志着这一老作家又焕发了青春。此后她参加了全国第四次文代大会,恢复了和许多老朋友的交往,还受到港、澳和国外学者的重视。1979年,她在邓颖超的关心下调入上海社会科学院文学研究所。这一时期,她的许多作品如《红楼梦话剧集》(收入它(应为她)据《红楼梦》改编的话剧4种)、《梁山伯与祝英台》《白蛇传》以及主编的《无题集》(改名《皇家饭店》)得以重新出版。同时,她写下了大量回忆过去,抒发真情的散文,集成了《沧海泛忆》、《行云散记》、《浮生若梦》、《不堪回首》及《长相忆》等5个散文集,这些散文写得亲切自然而又充满血泪真情,可以看作她对自己一生的总结,也是中国当代散文史上的杰作。
      赵清阁自幼丧母,性格上不免孤独抑郁,但她从反抗封建婚姻开始,背叛家庭,反抗不平等的旧社会,追求妇女的独立自主,则又有了几分刚勇和沉毅。然而以一个年轻女性走向社会,不能不多方寻求帮助,和各色各样的人物接触,其中既有共产党人和进步人士,又有国民党人和文化官僚。她以爱国、民主、进步为旗帜,周旋于这许许多多的文化人之间,坚持着自己的自由思想和独立品格。解放后她历尽各项运动尤其是“文革”浩劫的折磨,但仍然努力保持自我,维护女性的独立自尊和自强,以文艺的自由创造为第二生命。因此虽然历尽艰难曲折,她还是在中国现代文化事业上做出了自己的贡献,成为一个有影响的现代女作家。
      赵清阁所写的作品,多数离不开爱情,不少是爱情悲剧,无一不表现出对于纯真爱情和自由婚姻的追求,对幸福的渴望。如剧本《生死恋》、《此恨绵绵》,小说《艺灵魂》、《落叶》等。然而她本人的爱情却并不圆满。她早年从反抗封建婚姻开始走上社会,在事业上、生活上均得到许多正直的成年男性的帮助,但他们却不能帮助她找到真爱。抗战中她来到武汉,在筹备“文协”的过程中认识了老舍,两人以性格、旨趣相投,几乎一见钟情,开始了一段甜蜜而凄美的恋情。他们一起参与了“文协”的筹建,并在赵清阁创办的抗战文艺刊物《弹花》上携手合作。而后,他们又先后来到重庆,并在北碚合作剧本,继续为抗战文艺、为“文协”出力。抗战和文艺使他们走到了一起,在战争带来的苦难中他们患难与共、相互慰籍。他们几乎要结成为一对抗战伉俪了--这是在抗战的特殊年代,流落大后方的文人在特殊的情境下每每发生的事,--但由于1943年老舍夫人带着3个孩子突破封锁突然来到而中止。此后他们常常分处两地:1943年后是成都/重庆-北碚,1946年后是上海-美国,1950年后则是上海-北京。然而他们精神相通,藕断丝连,仍幻想着有朝一日顺利解决老舍的家庭问题后结合在一起。老舍甚至连安排夫人今后的生活和子女教育的资金都准备好了。但是,他无法取得夫人的谅解,夫人支持他只身赴抗战并代他奉养老母抚育子女的恩情他也不敢忘。同时,建国后连续不断的政治运动和思想改造,也使他们无暇顾及情感上的事。更何况在强势的公众舆论中,个人情感只是小事、私事,而作为名人的形象却是关乎国家的大事、公事,这使他们不得不放弃幻想,面对现实。为此,赵清阁愿意作出牺牲,不提往事。于是,他们将丝丝的恋情化作浓浓的友谊,仍然保持着超乎寻常的关切,始终不渝, 直至“文革”初起,老舍自沉于太平湖。天人相隔,反而加深了赵清阁的思念。每当老舍生辰或忌日,她都要独自加以纪念;每当在报上读到有关老舍的文章,她都倍加关注,甚至剪存;她的许多回忆散文,都提到了老舍;她的客厅中悬挂着老舍1960年春写给她的《忆蜀中小景二绝》,书房中书桌上是老舍1939年参加北路慰劳团特地从甘肃酒泉带回来送给她的砚台;正对书桌,是老舍1961年写给她的祝寿联“清流叠韵微添醉,翠阁花香勤著书”;侧面墙上则是老舍1944年写给她的扇面;床头柜上,则是老舍在她生肺结核时送给她的小痰盂。老舍在她的生活中无处不在。但除了个别情况,她绝口不提他和老舍间曾经有过的恋情。她觉得文坛作风不正,成见太深,害怕损害老舍的形象;同时感到人言可畏,害怕扰乱自己晚年的清静。为此,她甚至在临终之前,把珍藏的“文革”劫后残存的老舍的信件也毁去了。她至死都在思念着老舍,维护着老舍。
      赵清阁终身未婚,身边也没有亲人,晚年只有保姆吴嫂几十年相依为命。她淡泊名利,以书为伴,在寂寞和辛勤笔耕中度过了余生。
      1999年6月,赵清阁曾接受中央电视台和东方电视台的采访,她的谈话成为央视《二十世纪中国女性史》和东视《记忆》的重要内容。这是她去世前对我国现代史和女性史的重要贡献。
        她于1999年11月27日在上海逝世,享年85岁。
                                              2006年7月于上海师范大学
      
      附记:这是我应日本友人渡边明次先生约请,为他所译赵清阁的小说《梁山伯与祝英台》(日本侨报社2006年10月出版)所写的著者介绍。因篇幅等关系,删去了涉及老舍的部分段落。

    posted by: リャンチュウ先生 | - | 12:26 | comments(2) | trackbacks(0) |
    老舎が大好きで、日本老舎学会でも話題になっていましたが、確実な文献をどうもありがとうございます。リャンヂュウ先生今後もどうぞご健筆を&#128149;
    | えり | 2017/09/09 8:28 AM |
    このような地味な記事にコメントいただき光栄です。上海の史承&#38055;先生はとても誠実で尊敬すべき人物です。その先生から送られて来た訂正原稿を心を込めた未熟ながら翻訳いたしました。
    | 渡辺明次 | 2017/09/11 5:53 PM |









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