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  • 小説梁祝リャンチュウの著者「趙清閣」と「老舎」の恋愛事情
    渡辺明次 (09/11)
  • 「孟姜女口承伝説集」に前文を書いていただいた蘇州の馬漢民先生東京へ、神保町と国会図書館に同行。明代の文学者、蘇州の人、馮夢竜(ふうむりゅう)の記念館開設準備のための来日。
    渡辺明次 (09/11)
  • 「孟姜女口承伝説集」に前文を書いていただいた蘇州の馬漢民先生東京へ、神保町と国会図書館に同行。明代の文学者、蘇州の人、馮夢竜(ふうむりゅう)の記念館開設準備のための来日。
    えり (09/09)
  • 小説梁祝リャンチュウの著者「趙清閣」と「老舎」の恋愛事情
    えり (09/09)
  •  梁祝リャンチュウ伝説(梁祝愛情故事)は1500年以上昔の東晋(AD317〜420)の頃に形成され今に連綿と語り伝えられており、中国で四大愛情伝説(梁祝・孟姜女・牛郎織女=七夕伝説・白蛇伝)の一つに数えられる伝説である。
    Tsukagoshi (07/25)
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愛情伝説とは異なる一面⇒“生当封侯,死当廟食,区区何足論也”と“有美錦,使学 制”寧波の石碑に刻まれた、高邁な理想を抱いた清廉潔白(清官)な若き役人の姿
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      梁祝伝説の全ての資料を、誰でもが日本語で読めるようにする翻訳を続けているのだが、今回は、寧波の「梁祝文化園(梁祝の廟と墓がある)」にある四つの石碑に書かれていることで、宋代と明代の二つの石碑にある、注目すべき言葉(古典の記事と一致する部分)を紹介したい。
     
    1,宋代1100年代、実在の明州知事「李茂誠(りもせい)」の宋大観年間の「晋鄮令梁聖君廟碑記(義忠王廟記)」(晋鄮ぼう県知事聖なる梁山伯廟記)。(誕生から死までと梁祝二人の関係を、中心に「この世にあっては生きているときは諸侯に封ぜられ偉い役人になり、死しては人々の尊敬を受ける人になるべきであって、女性にふられるなどという小さなことは論ずるに値しない」)がある。

     

    2,明代1500年代の鄞県知事、「魏成忠(ぎせいちゅう)」が作らせた「晋鄮令梁山伯碑記」(晋代の鄮ぼう県知事聖なる梁山伯鄞県知事の廟記)(梁祝二人の関係ではなく、いかに民衆に慕われ優れた知事であったか、また知事に相応しい見識を備えた人物であったかが書かれ、その話しを敷衍する形で⇒、「有美锦,使学制」『あなたに美しい錦があるのを、裁ち方を習ったものに裁たせない。』(錦を裁つ⇒賢者は県知事という要職に就くべきである)が強調されている。)

     

        寧波には石碑が四ある、その一つ目
     

    1,宋代1100年代、実在の明州知事「李茂誠(りもせい)」の宋大観年間の「晋鄮令梁聖君廟碑記(義忠王廟記)」(晋鄮ぼう県知事聖なる梁山伯廟記)。 李茂誠は(1107年〜1110年)北宋大観年間の明州知事で、その石碑には、梁祝2人の生没年代などがはっきりと書かれており最も知られた石碑。最も有名で、重要なのは、愛情伝説とは異なる一面を伝える、実際の古典にある言葉である『“生当封侯,死当庙食,区区何足论也。”』⇒「この世にあっては生きているときは諸侯に封ぜられ偉い役人になり、死しては人々の尊敬を受ける人になるべきであって、女性にふられるなどという小さなことは論ずるに値しない」である。この言葉は祝英台(チュウインタイ)に結婚の申し込みをした時に、既に親が決めた結婚が決まっており、祝英台を諦めた時に、ため息交じりに言った言葉である。
     

    この言葉の出典は⇒後漢書「梁棘(りょうしょう・きょく)伝」列伝三・梁統列伝第二十四 ・・・・・
    (梁統の子の)梁棘(りょうしょう)は京師(みやこ)に生長したれば、本土を楽しまず、自ら其の才を負(たの)んで鬱鬱(うつうつ)として意を得ず。嘗つて高きに登りて遠くを望み、嘆息して言いて曰く、「大丈夫の世に居るや、生きては当に侯に封ぜらるべく、死しては当に廟食(廟に祭られること)せらるべし。如し其れ然らずんば、閑居して以て志を養う可く、『詩』、『書』は以て自ら娯しむに足る。州郡の職は徒らに人を労(わずら)わす耳(のみ)。・・・・・・・
    これが書かれている、後漢書は後漢(25年―220年)時代を記した紀伝体の歴史書であり、年代的にも、この言葉を、勉学の中で梁山伯(リャンシャンボ)が知り、これを「後漢書」から学んで、自ら祝英台との恋が実らなかったときに、咄嗟に思い起こし慨嘆して語ったとしても何の不思議もないのである。
      

    注:「後漢書」⇒中国,後漢(25年から220年)時代を記した紀伝体の歴史書。全120巻であるが,本紀10巻・列伝80巻は南朝宋の范曄(はんよう)の作で,志30巻は晋の司馬彪(しばひょう)の作。
       注:梁 統(りょう とう、生没年不詳)は、中国の新代から後漢時代初期にかけての武将、政治家。

      

    二つ目明代の石碑
     2,明代1500年代の鄞県知事、「魏成忠(ぎせいちゅう)」が作らせた「晋鄮令梁山伯碑記」(晋代の鄮ぼう県知事聖なる梁山伯鄞県知事の廟記)魏成忠は明朝万暦29年(1568年)の鄞県(寧波)知事。水利工事(施設)に関心があり、護岸工事の土塁を築くために、魏成忠自ら石を運びレンガを積み修理した。娼妓制度に反対し、後に外刑部主事となった。
    石碑には、梁祝二人の関係ではなく、いかに民衆に慕われ優れた知事であったかが書かれ、知事に相応しい見識を備えた人物であることが称えられ 、鄞ぎん県知事は、昔の

     

    春秋左氏伝襄公31年)にあるように、(梁山伯は美しい錦の裁ち方を習得した人物である)「有美锦,使学制」⇒『あなたに美しい錦があるのを、裁ち方を習ったものに裁たせない。』

    という話しからいけば美しい錦の裁ち方を学んでいるので、余りある立派な知事であり・・・・を引用し、(錦を裁つ⇒賢者、県知事という要職に就くべきである)梁山伯(リャンシャンボ)は、儒教を中心に学問したので、なるべくして県知事となったのである書いている。

     

     

       この出典は 《春秋左传正义》卷四十〈襄公·传三十一年〉
       孔子と(その弟子)子産(春秋時代の鄭の宰相)の会話

     

    ⇒ また子皮(鄭の公族の中で最大の勢力を誇っていた宰相)が尹何(いんか:若年で而も政治経験のない若者)に地方の町を治めさせようとしたとき、子産は言った、「若い。使えるかどうかわかりませんよ」「まじめだ。わたしがかわいがっている。わたしには叛かない。あれを地方へやって勉強させれば、ますます政治が分かるだろう」「だめです。人を愛するならその身のためを計るべきです。今あなたは人を愛して政治をやらせようとなさる。それは庖丁の持ち方も知らぬ者に料理をさせようとするようなもので、害が多いでしょう。あなたは人を愛して、これを傷つけるだけです。それではだれもあなたに愛されるのを嫌がるでしょう。あなたは鄭の国の棟なのです。棟が折れればたるきが崩れます。そのときわたしも潰されてしまいます。ですから残らず話をいたすのですが、

    あなたに美しい錦があるのを、裁ち方を習ったものに裁たせない。それはだめです。大役・大邑は身を庇う(大切な)着物ですから、習った者に裁たせてこそ、美しい錦もさらに着ばえがするのではありませんか。

     

    注:春秋左氏伝:魯(ろ)の国の歴史書で五経の一つである「春秋」の注釈書。30巻。文章にすぐれ史実に詳しい。孔子(こうし)と同時代の左丘明(さきゅうめい)が注釈を付けたものというが、諸説がある。「伝」は経書の注釈の意。

      他の二つは以下の3と4である。
    3,清代1600年代 清代の県知事で学者の「陳勱(ちんばい)」(1805〜1893年)、鄞県(寧波)の人が建てた石碑、「重修晋鄮令梁聖君廟碑記」(晋代の鄮ぼう県知事聖なる梁山伯鄞県知事の廟修築)(一つ目の李茂誠の石碑の内容が引用され廟堂が寂れたので修復することが書かれている)

     

     

     

    4,現代1996年に建てられた、「桑文磁(そうぶんじ)」(1914年生)鄞県(寧波)の人、鄞県政治協商会議常務委員、県人民政府委員を務めた。「重建梁山伯廟碑記」(修築梁山伯の廟記)、主として現代に至り廟堂を再建することが中心に書かれている。

     

    posted by: リャンチュウ先生 | - | 16:42 | comments(0) | - |