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    渡辺明次 (09/11)
  • 「孟姜女口承伝説集」に前文を書いていただいた蘇州の馬漢民先生東京へ、神保町と国会図書館に同行。明代の文学者、蘇州の人、馮夢竜(ふうむりゅう)の記念館開設準備のための来日。
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  •  梁祝リャンチュウ伝説(梁祝愛情故事)は1500年以上昔の東晋(AD317〜420)の頃に形成され今に連綿と語り伝えられており、中国で四大愛情伝説(梁祝・孟姜女・牛郎織女=七夕伝説・白蛇伝)の一つに数えられる伝説である。
    Tsukagoshi (07/25)
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山東省微山県馬坡の梁祝伝説もう一つの石碑、 実踏調査の途中、偶然目にすることになった「梁山伯祝英台墓誌」
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       梁祝伝説の全文字記録を日本語で誰でもが読めるようにという作業をしているのだが、今回は2005年7月実踏調査の途中、山東省で偶然目にすることになった「梁山伯祝英台墓誌」について、存在する石碑は他にはもうない。

    発見当時の新聞報道
    (2003年11月5日『中国文物報』より)

    「碑文は831文字である。碑文の記載によれば、明朝の正徳11年(1516年)、朝廷の欽差大臣で南京工部の右次官、前監督・査察院の右副都御使の崔文奎が河川を視察した時、微山の馬坡を通りかかり、すでに見る影もなく朽ち果てている梁祝の墓を発見し、修築することを決めたという。また見つけた墓碑の碑文には祝英台が女性の身で男装して、梁山伯と一緒に鄒県(山東省鄒城市)の嶧山(えき山・“峄山Yìshān”)で三年間学問に励み、後に二人は思い慕う間柄となり亡くなり、泗水(しすい)の西馬坡に合葬されたという史情が刻まれ記載されている。著名な考古学者、中国科学院院長の郭沫若が、清代の焦循(清中期の学者しょうじゅん)が書いた『劇説』(焦循の手になる中国戯曲の筆記集)の中に「山東省嘉祥県に明朝の人のために石に刻んだ、祝英台の墓碑文がある」という記載に基づいて、特に済寧市嘉祥県に人を遣わしてこの墓碑を探させたが見つけることはできなかった。1976年大規模に耕地を平に造営し河筋を整備したとき、梁祝の墓碑は他のもろもろの墳墓と一緒に埋められ平らに整地された。墓誌の石碑は地下深くに埋められ、また一回無情にも歴史の塵にまみれた。 90年代の後期に、済寧市文物局は歴史史料の記載にもとずき、梁祝の墓碑に対して調査を実施し、墓碑が埋まっている場所の具体的な位置を探し当て掘り出した。」


      この石碑にたどり着いた経緯
      「梁祝伝説の真実性を追う」ために、2005年7月実踏調査を行った。訪問した場所。
    ☆山東省鄒県嶧山(えきさん)(廃墟とはなっているが梁祝学問所跡があるといわれている所)また≪峄山志≫(嶧山志)には“万歴16年(1500年代)の県知事王自謹により、洞窟の入り口の大きな岩の南側に“梁祝学習洞窟”という五文字を刻んだとある。
     
    ☆山東省曲阜市(明朝の学者張岱(ちょうたい)の書いた「陶庵夢回想」に1629年に曲阜に行ったところ、孔子廟で切符を買って入る門の所の、宮殿の壁の上に「梁祝学問所」と掲げられていたという記録がある)探し回ったがどこにもなく、そんな話は聞いたこともないと言われた。

    ☆ 山東省嘉祥県、人民政府文物管理局(梁祝の墓があると言われている、存在せず)⇒ここではないそれは微山馬坡村のことだと説明を受けた。そして、済寧市文物管理局の顧承銀先生を紹介してくれた。
     

    ☆済寧市人民政府文物管理局(顧承銀先生)各種資料をいただき詳細な説明を受けた。

     

     

     

     

     

     

     

     

    ☆山東省微山県馬坡村、人民政府を訪問。もともと規定により「この石碑は簡単には外部の人に見せることはできない」と言われた。日曜日で当直の青年には上司の許可が取れないのでどうにもならないと言われた。この日は北京外国語大学の英語科の学生(日本語はできないが実家がこの地なので梁祝故事にとても興味があるという母親とともに同行してくれ、知り合いの車まで手配してくれた)の母親が他の政府機関で働いている友人に連絡を付けてくれ、当直の青年は上級指導者の許可を得て石碑が保管されている倉庫の扉を開けてくれた。

     

    結論的見解                        
       寧波の李茂誠の「義忠王廟記」の作られた年代、宋代丙子1156年であり、 山東省微山県馬坡の石碑「梁山伯祝英台墓誌」の作られた年代が明朝の正徳11年(1516年)であることから寧波の中国梁祝文化研究会会長周静書先生の論文によれば寧波の石碑より遅い年代なので、寧波の李茂誠の石碑の内容を模倣しているのではという見解である。石碑には、石碑を作った年代だけが記され他の記録、寧波のように梁山伯が役人になったとか、祝英台が梁山伯の墓に飛び込んだというような記述や時代や生没年の記述は一切ない。また、もともとこの地には

     

    「梁氏」という一族が力を振るっていたので、その一族の墓と、梁祝故事伝説が、何らかの原因で混同されているのではという説もあるが、真実は不明。

    今は畑となっている石碑が発掘された場所)

        石碑に書かれていること、あらすじ、登場人物、
    祝英台⇒済寧九曲村(山東省済寧市)の大富豪の娘(18歳)。梁山伯⇒鄒(すう)県西(山東省鄒県)梁大公の息子(20歳)。学問に赴いた場所⇒(山东省济宁市邹城市峄山镇峄山)山東省済寧市鄒城市嶧(えき)山鎮嶧山(嶧山の中腹に今も学問所跡の標識がある)。祝英台は親の意を汲んで男装し学問に向かう途中二人は出会い、三年間一緒に勉強したとしか書

     

    いてない。(書かれてはいないが在学中は祝英台が女性であることは知らなかったことになる、二人はとても親しい友情関係にあり、祝英台は密かに梁山伯と結婚したいと堅く思っていた)。三年間の学問を終えてから、梁山伯は、学校時代の祝英台との約束を守り(親友)祝英台の家を訪ねる。すると目の前に現れたのは女性の衣服を着た英台だった。それはまるで昔の「花木蘭」(ムーラン:老いた父に代わり娘が男装して軍隊に入りその勤めを男性として果たした)のようだった。だが英台には、すでに親が決めた、西の荘の金満家である馬氏と婚約(当時親が決めた結婚の約束は娘には覆すことができなかった)が成立し、嫁入りの日も近づいていた。(英台が女性であることを知り山伯はさらに彼女を好きになり両親の承諾はないけれども)二人は密かに結婚の約束をした。山伯は祝家訪問の一年後に病気で亡くなった(原因などは何も書かれていない)。在学中からの愛を貫こうとする祝英台は苦しい悩みに陥り、山伯との約束を破るよりは「生」を放棄し「義」を守るべきと思い、英台はついに自殺した(どのように自殺したかは書かれていない)。地方の有力者達は英台が自殺したことを知り、あり得ないことだと嘆き、山伯のお墓に一緒に埋葬してあげ、生きていたときの願望を満足させてあげた。時の移ろいの中で墳墓には木が生い茂り寂しく荒れ果てた。だが、この祝英台の節義は永遠に忘れることはできない。このことは朝廷にまで聞こえ事の次第を「梁山伯祝英台墓誌」として、石に刻み廟を作ることになった(正徳11年1516年)。

    posted by: リャンチュウ先生 | - | 17:49 | comments(0) | - |